〔1.はじまり〕
お好み焼きの歴史は、辿り辿るとコムギ発祥の地西アジアまでいくそうです。
もともとコムギは、コメのような粒食ではなく、粉に磨りつぶして利用する植物です。
おそらく、天日でパンを焼くのとおかずをつくるのがめんどうになった人が、
「いっそ混ぜて焼いてしまえ!!」と言い出したのが、お好み焼きの遠い遠いご先祖さまだったのでしょう。
〔2.日本伝来当初〕
そんなこんなで、コムギとコムギ粉料理が、西アジアからシルクロードを伝って中国へ。
そして中国から日本へと渡ってきたのが、奈良〜平安時代の頃と言われています。
「遣隋使」「遣唐使」などによってもたらされたこれらは、
あくまで貴族階級、知識層(仏教徒など)のものであり、庶民には無縁のもであったと言われています。
鎌倉時代に仏供として「巻餅(けんぴ)焼き」なるものが登場します。
定説ではないですが、お好み焼きの祖先のひとつのようです。
〔3.お好み焼き誕生〕
お好み焼きの祖先として、一般的に言われているのが、
安土桃山時代の知識人千利休が創作した「麩の焼き」。
茶懐石用のお菓子らしいです。
コムギ粉を水で溶いた生地を、焼き鍋の上に薄く流し焼いたものに、
味噌を塗り、砂糖とけしの実をふりかけぐるぐる巻きにしたら出来上がり。
らしい・・・。
うまいのか・・・、いや、そもそもこれでお茶が飲めるのか・・・
そんな疑問はさておき、
江戸時代、戦乱も終わり平和な時代が訪れるとともに食文化も発展。
コメ栽培の裏作としてコムギ栽培が一般的になると、
コムギ粉料理も庶民のものになっていく。
僧坊の精進料理であるうどんなどの麺類が庶民に間に普及するのと同じくして、
後のお好み焼きにつながる、「文字焼き」が登場。
これは、食紅等で色をつけた生地で文字を書いて焼き上げ、醤油を塗って食べる料理。
主に子どもを相手とした、駄菓子で、葛飾北斎の漫画のなかにも描かれている。
一方、地方では、農作業の合間などに食べる間食として様々な郷土料理が見られるようになる。
〔4.お好み焼きの発展〕
明治時代にはいり、西洋文明を積極的に受け入れるようになる。
それは、食文化でも例外ではなく、すき焼きをはじめとする肉食文化のうけいれも見られるようになる。
この風潮のなかで、現在のお好み焼きの原型がうまれる。
「文字焼き」が訛ったと言われる「もんじゃ焼き」もそのひとつで、
当初は、コムギ粉を水で溶いた生地を円形に焼き、
そこにすき焼きの残りの具である牛肉とこんにゃくを細かく刻んだものと揚げ玉をトッピングしたものであった。
のちに具が、すじ肉とこんにゃくとなり、屋台でも売られるようになる。
太鼓を打ち鳴らしながら行商する姿から、「どんどん焼き」の名称が生まれた。
明治〜大正期に大流行したといわれているが、
大森貝塚を発見し、「縄文土器(Code-Maked Pottery)」の名称を名づけた、E・S・モース
のスケッチにも屋台で売られる様子が描かれている。
現在のお好み焼きに直接結びつくのが、「洋食焼き」である。
作り方は、クレープ状の生地の上に、千切りキャベツをのせ、刻みネギをトッピングし、
溶き粉を再びかけ、ひっくり返して焼き、ウスターソースの製造時に溜まるスパイスの効いた
どろっとしたソースかすを塗る。この作り方をみても、現在のお好み焼きとほぼ変わらないことがわかるだろう。
名称の由来は、コムギ粉=メリケン粉、キャベツ=明治以降の新しい野菜、ウスターソース=イギリス産と、
三品ともハイカラ食材であることから、「洋食焼き」の名がついた。
これは、大阪がルーツといわれている。
昭和前半には、屋台での価格が1銭(ちなみに当時葉書き1枚1銭5厘)だったことから、
「一銭洋食」の名前も生まれた。
また、「洋食焼き」に麺をいれて焼き上げると、「モダン焼き」ないし「広島風お好み焼き」となる。
お好み焼きが現在のように普及したのは第二次世界大戦後といわれている。
この頃、鉄板焼き料理のひとつとしてお客のニーズ―食事、酒の肴、軽食など―に合わせて、
ネギ焼き、とんぺい焼き、など発案されていった。また、地方での個性が顕在かしてくるのもこの頃である。
随時調べていきますが、とりあえず、完
≪参考文献≫
□社団法人農山漁村文化協会編/奥村彪生(あやお)解説『聞き書ふるさとの家庭料理』7巻まんじゅう・おやき・ おはぎ,2003年2月,249頁
□岡田哲編『コムギの食文化を知る事典』2001年7月,286頁
□熊谷真菜『たこやき』リブロポート,1993年6月,266頁